昭和45年06月18日 朝の御理解
御神訓 一、「今より何事も方位は忌まず わが教えの昔に帰れよ。」
どう説明して良いか分からんほどに、私には難しい教えに思います。只方位は忌まずと教えられますので。例えば日柄方位と申します。そういう事に忌まず。そういう事にこだわらずにわが教えの昔に帰れよ。いうなら自由勝手たるべしね。あちらの方位は方角が良いとか悪いとか言う事はない。どちら行っても悪い所はない。困る困ったという所はない。行ってはならないという所はない。いわゆる自由勝手たるべし。
今いう今の「 」、ね、今までは皆んな日柄を言うたり、方位を言うたりしてね、今日はあちらの方角へは行ってはならんとか、今日はこちらの方角が良いとかと、言った様な、いわゆる世の中を狭くしてしまう、世間を狭うしてしまう。そういう生き方を改めて、ね、何処へ行ってもならわが教えの昔に帰れ。どこへ行っても神様のお恵みの場として、そういう考え方になれよという風に、まぁ説明をするならそういうふうな事ではないかと、こう思うですね。
今言う様に『何事にも方位を忌まず、わが教えの昔に帰れよ』と、ね。束縛される事がない、ね。所謂自由いわば勝手たるべし、の所をその自由勝手という事を、わがままという風にとってはならないと思いますね。今日私ここの所を頂いてからですね、今申します様にどう是を頂いて、まぁそれだけならまあそれだけなんですけれど。まぁそれだけとても矢張り今まで、例えば日柄方位なんかに縛られておった人間が。
いわばそれは本当にまぁ開放的と言うかね、そんな事で良かろうかと思う程しであったろうと思いますね、その当時。それは今でも矢張りそれを言うくらい。是はだから『何事にも方位を忌まず』という事は、いわゆる今でも矢張り、迷信を申しますけれどもです、その迷信を、払うてしまうほどしの事ですね。あちらの方位、方に、旅行なら旅行するのに、あちらの方には金神さんがござるから金神さんを封じて行かにゃいけんとか、と言った様な事なんですね。
そんな事はまだ他にも、家を建てるのには矢張り、家相を見てもらわなければいけないとか、結婚するには日柄を選ばなければいけないとか、ね。そういう例えば不自由な考え方を一掃してしまえ、それはみんな迷信だと。教えの昔に帰れと。その後において作った人間が作ったいうならば、ま、ひとつの学問の様な物ではありましょう、ね。その後において人間がつくった物ばっかりなんだ。
だからいわゆる教えの昔に帰れとは、そんな事だ、ね。日が良いも悪いもない、方位もない。そういう自由闊達な生き方が出来れるという訳なんです。その事を私が御理解に頂きましたらね、『人間は万物の霊長であるから、万物を受け道理に合う信心をせよ』と、ね。人間は万物の霊長だから、万物を受け道理に合う信心をせよと。是は大道理、道理というだけではない、もう大道理だと私は思うです。
人間だけの上にそういうやかましい掟といったようなものがあるはずがない、この世の中に、ね。人間以外の例えいや、牛やら馬やらに日柄もなかにゃ方位もないでしょう。人間にだけ。人間はしかも万物の霊長ともいわれる人間の上に、そういう方位などがあって良かろうはずがない。だからこれは、いわゆる大道理だと思いますね。大真理と言うてもいいかも知れませんね。本当なこと。いよいよ、間違いのない本当なこと。
それをその後にのに及んでですね、例えばこれは支那辺りから来た一つの迷信でしょう、ね。けどもそれを一つのまぁ理論立てるというかね、しますというなら易学とか、ね、と言った様な学問にまで、それを進めて行く事が出来るでしょうけれども、そう言う様なものを、例えばもう一蹴してね、教えの昔に帰れと、ね。教えの昔に帰る。いわゆる自由勝手たるべしと。けれどもそれは、決してわがままではない。
そこでです私共が本当な事を分かる、大道理、ね、大真理と。本当な事を分かるという事は、どういう事かと。私はここん所を頂いて、どういう事をもって本当な事と教える。どういう事をもってこの教えを頂いた事になるのかと、言う事は『節は伸びる為にある』と、いう事を頂くんです。節木やら竹に節がありますね。あれは伸びる為にあるんだと、ね。例えば方位を無視したから難儀なことが起こるとか、家相を見ずに家を建てたから病人が続くとか、そういう事ではない。
よしそこにです病人が出来るような事があっても、ね、例えば困った事難儀な事が起こって来てもです、それは全て伸びる為にあるのだという事、ね。是がいわゆる本当な事だと、ね。人間にだけ、例えば方位などがある筈はない。まして人間は万物の霊長と言われる、いうなら神様の一番寵愛を惜しまれないのが人間だと、こう思うですね。まぁ神様の目からご覧になれば、生きとし生ける者すべてが、まぁいうな一視同仁、なら牛でも馬でも可愛い事かもしれませんけれども、可愛い氏子とは仰っていない。ね、
氏子と言われるのは矢張り人間だけなのです、ね。そういう例えば人間のうえに神様がそうしたあちらにもこちらにも、その綱を引っ張りまわした様な、窮屈な事をなさるはずがない、ね。そういういわゆる考え方が本当な事だと、いわゆる大道理だというわけですね。是はしかしこういう事を言い出される、その時代の百年いわば前の、例えば是日本だけでも、日本ででも、大変な事であっただろうと思いますね。
今でも日柄方位を言う位ですからね。結婚するなら矢張り黄道吉日を選んだり、家を建てるなら、やっぱ家相を見てもろうたりと、今でもあるんです。どんなに迷信はいわんと言ったような、その言うような人でもですね、やっぱり自分のさぁ息子が結婚すると言やぁ、良い日を選ぶ。おかしな話ですね。ですから今でもやっぱりそういう思想と言うかね、そういう見方考え方と言った様なものが、根強く私共の生活の中に入り込んで来ておる。それでは実に窮屈なことである。
さぁ結婚をする結婚式場を申し込む。もうそれこそ、黄道吉日の日という事になると、もういっぱい申し込みがあっとる。ですからもういわゆる、神聖森厳であるべきはずの結婚式が、まるきりところてんを押し出すように、ずうっと。さぁ汽車と言うたら、もうその日は満員。旅館も前から手配しとかなければでけないと言った様な不自由な事に、今でもなってるんですよね。本当におかしな話ですよ、ね。
そういう考え方を捨てるという事はですね、その事だけじゃないです。もう生活の全てがですね、もう明朗闊達なものになる訳なんです。その事だけじゃないです。私共の生き方が。それも今日私がここで頂いておる、人間は万物の霊長であるから、ね、道理に合う、それ特に今日は大道理に合う本当な事、にを分からしてもろうて本当な生き方をするという事はです、それこそ明朗闊達な生き方が出来る私は教えだと、ね。
それにはならまた本当な事の中にある、今日私その事を頂きます様にです、節は、ね、伸びるためにあるのだと、ね。こんな素晴らしい私はその、道理はないと。私の前に、私共の前に様々な難儀が横たわっておる様に見える。けれどもその難儀という、難儀と見ておるその難儀そのものがです、難儀じゃない。人間がより良い幸福な幸せな道を辿らして頂く為の節なのだと。それは植物や木や竹と同じである。
そこから折れる為にあるのじゃない。そこから伸びる為に、そこからまた枝が出ることの為に、いわば繁盛のことの為にあるのだと言うのです。いわゆる繁盛のことの為に、よりおかげを頂くことの為に節はあるのだと、こう。だからそういう事がです、例えば日柄方位、方位を一蹴する、した明朗な生き方をさして頂こうという教えなのですから、それを、はぁほんにそうだと身につけてしまうほどしにです。
私共の行く手に、ね、難儀な事はないのだ。難儀に見えるのはそれは迷信だと、ね。迷うた見方だと。決して難儀ではないです。それは全て私共がより良い幸せ、より伸びるため、より力強くそこから枝が出ることの為に、繁盛する事の為にあるんだという見方なんです、ね。難儀と見る見方を一蹴していく、そういう大変な事を私は教えておられるんだとこう思う。教えの昔に帰る。
ですから、方位を『方位は忌まず』とこういう事はね、そういう意味なんです。ですからここはなら方位だけをです、そういう事はそういう事は迷信だと一蹴することが出来るならばです、なら今日私が頂きますその、節は伸びるためにあるんだと、その節をですね、むしろその元気な心をもって節に直面したら、そこをもう一つ元気な心で抜けきるという事はです、ね、より伸びる事の為にあるんだと、私共がね難儀というものを、いわば蹴散らかすほどしの勢い、難儀というものじゃないと言うんです。
それを私共が臆病になってしまう訳です。いわゆる幽霊の正体みたり枯れ尾花であります。もう私どん、こまい時からね、あぁ幽霊っちゃぁ怖いもんだ、幽霊っちゃ怖いもんだと思い込んで来とる、ね。暗いとこに行ったらもうそこには幽霊がおるごたる気がする、ね。だからそこを行ってみると、決して幽霊なんかっておるもんじゃない、そこにあったのは、まぁ枯れ尾花であったという訳なんです。と言う様にです、ね、私共の行く手には難儀というものはないと。
私は今日ここん所を頂いて、もうこの所をどう皆さんに聞いてもらうかって私、私は説ききらんと言う程しの感じですよねこの、私は御神訓は。けども神様から頂いてみるとです御理解に、ここん所を頂いてみると、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと。日柄とか方位とか方角とか、ね、家を建てるのに家相を見らなければならないと言った様な事じゃなくて、そこはもう自由勝手たるべしだ。
家を建てるならば使い勝手の良いのが良い、家相だと、ね。日を選ぶ事はいらん。悪日とか悪日でないとかというものがある筈がない。もういつもが有り難い日なんだ、と例えばここはですね、思い込んでしまえる。いわゆる今までの迷信をですね、一蹴してしまう、ね。金光教の信心さして頂いたら、まぁそこんとこが出来にゃいかんのだけども、金光様の御信心を頂いておっても、まぁだ結婚式に日柄を言うたりね。
家を建てるのに家相ば見て貰うたりする人がある事は、もう是はね頂いておる信心を冒涜する様なもんですよ、ね。もう信心頂いとったっちゃ同じ事です。そんな事では神様にご無礼になるから、本当なおかげになる筈はありません。だから結婚式の時なんか、只ここの御信者さん方の場合なんかは、決して日柄方位を申しません。けども相手が信心がありなさらんとなら、もう相手任せにしときなさいという風に申します。
けれども不自由な事じゃないですか、同じ日に結婚式が幾つでん重なるごたる事を、の様な事よか、ちぃっとばっかし逸らしてからね、まぁはっは悪日とまぁ中位な日位な日にしたらどうですかと、いう風に私は申します。本当いうたらその日が丁度都合がいいとするなら、暦の上では悪い日でという事になっておったって構わんとです。そういう例はここにいくらもあります。実証してみせんと人間が解らん、ね。
死んだら葬式を友引の日にはしちゃいかんち言うちから、もうそれこそ先に延ばしたりなんかする。馬鹿んごたる話ですよ。本当に馬鹿んごたる話だけれども、やはりそういう事を私共が教え込まれて来とる、思い込んできとる人間が。だから何か本当にそれが幽霊のように見えてくるわけなんです。だからそこをね、一蹴してみるとそれこそ蹴った来るぐらいな気持ちでそこを通ってみると。
そうじゃなかったなぁという事がわかる、ね。そう言う様な事と同様にですなら、ね、節は伸びる為にあるのだと、分かり込まして頂く思い込まして頂く。是がいわば大道理なんです。人間は万物の霊長だからそこんにきは、一つ分からなきゃいけん、ね。そこにはね、先々不安な思いで暮らす事もいらない、ね。全てが神様のお計らいの中に、ね、いうならば神様の御神愛以外には、この世にはないのだと、まぁ一例にして言えばそうなんです。この世の中には、いうなら神愛が満ち溢れておるのだという事だ。
『わが教えの昔に帰れ』。ね、そういう事を作り出す前、ね、そういう日柄も方位も言わなかった時代のその前に、それもやはり、人間が、幸福になりたい、幸福になりたいというようなです、その思いを凝らしたところからです、ね、はぁ、あぁいう事をすりゃぁこげんなる、こういう事をすりゃぁあげんなると言った様なね、そげな事から段々一つの学問にまで高められたものでしょうね。
やはり、止むに止まれぬ、人間幸福になる為にそういう事を、が、言うてきたりしたのでしょうけども、ね。ところが、それではかえって幸福にはならないという事を、いうならば喝破された、ね。そういう事ではほんな事ではないという事を見破られたのが、私は教祖生神金光大神だと思いますね。取分け日本の宗教の中には、それが多いかったんですからね、迷信が。宗教が迷信であってはならない、ね。
宗教はあくまでも、どこまでも真理、本当な事、ね。本当の理いわゆる本当の法則とでも申しましょうかね、天地の法則とでも言いましょうか、その法則を知って、法則に従う生き方を教えるのが宗教じゃなからなければならんと、私は思います。そういう意味でですね、やはり教祖の、そういう迷信打破の信心を打ち立てられたという事は、大変な事であったと思います、ね。
ですからその時分、それで商売をしておった法印さんですね、山伏なんか又は易者と言った様な人達が、大恐慌を感ずるわけですね。ですから教祖の元にそのいわゆる文句を言うてきておるおりますね。そりゃぁそうでしょう、今まで日柄や方位やらを教えてやって、食べて行っておったと言った様な職業の人たちです、ね。そういう人達が教祖の、例えば本当な話を聞いて、はぁそうだと、いう風に改めて分かった、ね、と言っておられる事が御伝記を頂きますと分かりますね。
ですからね、私共が『何事にも方位を忌まず』という事はです、そういう不自由な生き方からです、ね、天地至るところにですね、そういう良い悪いはないんだと、ね、いや勝手自由たるべしという事の思いをですね、いわゆるそういう思想を世界中に広めて行かなければいけません。ね、世界中でもどのぐらい窮屈な思いをしておるか分からない、そういうような事で。
それはこういう方位的な事、方位とか易学的な事やらは、大体東洋に多い訳なんですね。東洋人が特に言いよる。だから西洋人の人は言わん。所が西洋にはまたそれに匹敵するような迷信がやっぱりあるわけなんです、ね。十三日の金曜日が悪いとか何とかってアメリカだって言うちいうでしょう。合楽では十三日会が一番ありがたい日にしてあるじゃない、ね。ですから本当に十三日は悪い、金曜日は悪いと言う様な一つの人間の念というかね、思いと言ったようなものがね。
そう言う様な困った結果を呼ぶような事は確かにあるようです。それはまたお話しの大変長くなるからね。人間の思いと念と言った様なのが、百人思いよったのが、もう千人も万人もの者がその事を思うたらですね、そこに悪い事を形成するです。ね、だからあの飛行機が落てた日も金曜日じゃった、また落てた時も金曜日じゃったと言った様な事にまでなってくる訳なんです。
だからそういう事はないんだという、思う人が一人おったら一蹴してしまうです、そういう事は。だから相当勢いがいるですね。一蹴して通るという事ですから、ね。そういう事はないんだ、そういう事は迷信だと。神様のおかげを頂きゃぁ、神様のおかげだけしかないんだ。もうすべてが神愛の中にあるのだと信じきらして頂くという事なんです。それを、ね、今日はですね、それと同様にです。
私共の行く手には難儀な事はない、困った事はない。節に見えるのは、難儀に見えるのは、より良い幸せを下さることの為の神様のお働きだ。節は伸びる為にあるんだという大真理をです、私共が体得していったら、この世の中はどの様に素晴らしい明るい事になるでしょうか。先の事をはぁこげな、困った事になりはなりだんせんじゃろうかと、いわゆる先を楽しまずにね、先を不安な思いで過ごさなければならないと言った様な事が無くなるわけ。よし、節があらばあれという生き方なんです。
その節は、ね、むしろよりおかげを頂く事の為にあるのだという風に、私共思い込ましてもらい、分からして頂いたらもう行く手には、幽霊もおらなければ化け物もおらんのだと、ね。困ったという事はないのだと、あるものは神愛のみだと言う様なですね、そういう生き方。それが私は教えの昔に帰った生き方であると思うのです、ね。人間は万物の霊長だから、道理に合う今日はその道理というのね。
色々ありましょうがね、その大道理という事。それが方位を忌まずという事に頂きました、ね。同時に方位は忌まずという事はね、また私共の行く手には難儀はないと、という見方が一番本当な事だと、ね。本当な事というのは、真実大真理なんです。それをいかにも困った事が、難儀な事があるように思う。そりばってんあんた現に病気もありゃぁ、交通事故やらもあるじゃないですかと。
そりゃぁありますよけれどもね、そりゃぁあるけれどもね、それはより良いおかげを頂く事の為なんだと言う事。だからここで一大勇猛心が必要です。それを蹴散らかすほどしの元気な心が必要なんです。私共の行く手にどういう事があるか、怖い事が起こってくるか分からんけれどもそれは矢張り、神愛の現われであると。節は伸びる為にあるのだという生き方。そこにですね、生き生きとした生き方が出来ると思うのですね。
今よりは何事にも方位は忌まず、わが教えの昔に帰れ、という事をいわゆる大道理という事、大道理が私共に分かり、体得できればですね本当に厭うとか、ね、方位を忌まずという事はそういう事だと思うんですがね。厭う生き方というものじゃない。元気な心で、そのまぁいうならば、天地の大道を喝破するとでも申しましょうか、そういう生き生きとした生き方が出来る事を教えておらえる御教えだと思いますですね。
どうぞ。